2013年8月12日月曜日

終戦のエンペラー

原題は「EMPEROR」。
つまり皇帝。

「終戦の」という邦題には、多少の意味があるんだろうな。
言い換えれば「戦争がなければまだエンペラー」という意味も少なからずあるような…
終戦のエンペラー
マッカーサーはトミー・リー・ジョーンズ
8月にこの映画を演るということにも少なからず意味があるんでしょうね。
そしてまたこの時期にこの作品を創ることにしたのもの…
監督のピーター・ウェーバーはボクの観た作品では「ハンニバル・ライジング」。
ハンニバル・ライジングでも、少ないけど、Japanesqueみたいなのを創って驚かせてくれました。

この手を題材にした作品は好きでして。
「ラスト・エンペラー」や「太陽」なんかがあり、どちらも傑作。
とくに「ラスト・エンペラー」はボクのマイ・フェイバリットトップ5に入る作品。

やはり「事実は小説映画より奇なり」なんですよね。
実在の人物を描いた作品は興味深いです。

古代から、人間は権力を好み、そして支配されることも好んだりする変わった生き物。
その特質から人間は「皇帝」を生み出してきましたねぇ、何人も…。
そして、ある時、自分たちが生み出した「皇帝」を拒否するときがやってくる、、のが欧州、、白人の歴史なわけです。
アメリカからやって来たマッカーサーは若き准将ボナー・フェラーズ(マシュー・フォックス)に、たったの10日間で、太平洋戦争を引き起こした「日本軍司令部」と「天皇」の戦争責任について解明せよ、との命令をする。
元々、日本びいき、日本文化に精通していたボナー准将でさえ、日本の「天皇」について知ることはそう多くなかった。
白人たちの歴史上の皇帝はすべて戦争で戦って多くの人間を殺戮したうえで出来上がった皇帝であって、日本の天皇は「そうではない」のである。
はるか昔から、天皇は天皇として、日本にある山や川のごとく、人々の生活に、当たり前のように「そこに居た」のだから。
この感覚は外国人にはわからない。
北朝鮮やイラクの独裁者と同じようにしか思われていないなら、かなり歴史認識に「ズレ」がある。
そしてその「ズレ」は埋まりそうにない。

この「終戦のエンペラー」はけっこう斬りこんで、日本人と天皇に、深く入ってくるかな?と思わせておいて、すっと肝心のところで「准将ボナーと日本人女性アヤ(初音映莉子)とのラブロマンス」に逃げてしまう。
これが残念でならない。
まったく必要なかったサイドストーリーだと思う。
終戦のエンペラー
昼メロみたいな安っぽい展開は要らなかった。
その点、「太陽」は昭和天皇の日常を映し出し、深く、重く描いている。
あまりにも「日常」なので「映画」という娯楽には程遠い作品になってしまってるけど。
しかし、「太陽」と「終戦のエンペラー」は同時期の昭和天皇を描いているので、両作品を観ると、実に興味深い。

最期の御前会議の様子は「太陽」のほうが詳細に描かれている。
しかし、マッカーサーとのシーンは「終戦のエンペラー」のほうが詳しい。
西田敏行扮する鹿島大将が説く「日本人とは」という講釈には興味深い話が幾つもあった。
しかし、それらは「日本人と天皇」という関係を説明できるものではなく、結局、ボナーは天皇に戦争責任があるのではないか?と思い始める。
まあ、すったもんだ色々あって、マッカーサーが「よし、じゃあ、彼に会おう。」と言い、マッカーサーと天皇がご対面するわけです。
ご対面のシーンは「太陽」でも描かれています。
どちらかと言えば「終戦のエンペラー」の方は昭和天皇に好意的?良いように描かれています。
「太陽」は昭和天皇のことを「あっそ」の口癖とともに、「少し奇異なヒト」として描かれています。
「終戦のエンペラー」は題名がエンペラーなんだけど、ヒロヒトエンペラーは最期の方に少しだけ出てくるだけです…少し残念…
マッカーサーとボナー准将のことばかりなんですよねー。

アメリカ人だけでなく白人は「理解できない文化」は毛嫌いしますよね。
そこが悲劇の始まり。
イスラム文化に対しても同じだし。
白人至上主義の極みが、昨今の摩擦を生み出しているんだと、日本人の多くは判っています。
気づいてないのは本人達だけでしょうね。

こういうテーマを題材にした作品を観るといつもいろいろもの思いに耽ってしまいますなぁ…

チャンスが有ればもう一度観たい作品です。ヽ(^o^)丿